身内が失踪 – だから、ひとりじゃない [対談-前編]
2018年2月18日
カミングアウトストーリー
今回はインタビュアーとも親交が深いダルさんと、家庭の事情で心を閉ざしていたダルさんが変わるきっかけともなったゆきさんのおふたりにお話を伺うこととなりました。
おふたりが出会ったのは、どのようなきっかけですか?
ダル(以下ダ):僕が新卒で入った会社がカナエール(※)というイベントのスポンサーをやっていて、そのイベントのボランティアに興味があるって先輩に話していたら、そのイベントのスタッフをやっていたゆきさんをご紹介されて「興味あるなら、You来なよ!」みたいな感じで誘われたんですよ。そこでゆきさんと出会いました。
ゆきさん(以下ゆ):連絡を取り合った時期が、その年のカナエール活動が終了してしまったばかりで、やるとしても1年後。でも「やりたい」っていう気持ちは絶やして欲しくなくって、ちょうど関係者と打ち上げがあるから「来る?」って誘ったんです。
ダルさんがカナエールに興味を持ったのは、どうしてなのでしょうか。
ダ:最初は、福祉という領域に興味がなかったわけじゃないですけど、そんなにどっぷり浸かっているわけでもありませんでした。学生時代は教育学部だったんですが、せいぜい「子どもがかわいいな」ぐらいだったんです。ただ、僕の育ち的に、母親がいなくなったりだとか、借金を背負って大学に行くことが厳しくなったりとかっていうことがあったんで、そういうマイノリティの人たちには無意識レベルで興味があったんですかね。
社会人1年目に数回だけ、NPO法人キッズドアの母子家庭のボランティアにも参加したことがあって、なんか『片親』とか『子ども』とか『貧困』とか、そういうところには自然と今までの経験から興味があったっていうのはありましたね。
そうするとダルさんのマイノリティ要素って、どのようなことだと思いますか?
ダ:片親、貧困、障害(を持つ妹の家族)、家族とのいざこざじゃないですけど、亀裂的なところとかですかね。
ダルさんが持っている一番昔の記憶に遡っていただいて、今までどういう風に育ってきたかを伺ってもいいですか?
ダ:3兄弟なんですけど、妹にミルクをあげていたぐらいから憶えています。2個下なんですけど、あと兄がいて、僕は3兄弟の真ん中です。長男、次男、妹っていう構成ですね。
家族が他と違うなと気づいたのは、いつ頃ですか。
ダ:家族っていうより、母親の異変を感じ始めたのは中学校3年生とかですかね。
「異変」と言われましたが、どのような感じだったのでしょうか。
ダ:今思うと不思議なんですが、その頃って家にパソコンが数台あったんです。ひとり1台くらい持っているんじゃないかってくらい数台あって。母親がオンラインゲームに没頭しちゃったんですよ。深夜までやっていた頃もあって、たぶんそれは現実逃避だったりしたんでしょうけど、体調が悪そうで。その頃から母親との会話は少なくなり始め、母親の気分もずっと、プラスには行かない感じで。話しかけても応答がないことがあったりとか。
何かきっかけがあったのでしょうか。
ダ:細かいことははっきりわからないんですけど、父親が精肉店で自営業をやっていたんですよ。中学校のときにBSE問題で全然肉が売れないということがあって、その頃から金銭的にきつかったんじゃないのかなっていうのは、今になって思います。お金の管理は母だったので、それが言えなかったとか、でも学費を払わなきゃいけないとか、生活はしなきゃいけないとか…。
父はずっと仕事でなかなか家にいない人で、夜遅くに帰ってきて、寝て起きて、朝早く出ていく、そんな感じだったから相談できないし、そもそも頑固な人なので話しづらかったってこともあったのかもしれないですけど。そういうことで、どんどん落ち込んでいったのかなって推測しています。
ご両親であまりコミュニケーションを取れていなかった、などの状況が関係していたかもしれないんですね。お母様が落ち込みがちということは、他の家族にどのような影響があったのでしょうか。
ダ:当時、落ち込んでいるってはっきり気づいていたのは、僕くらいかなと思っています。
というのも、妹は自閉症だから、相手の仕草だとか行動を見て「なんかちょっと違うな」くらいは思っていたのかもしれないですけれど、明確に変化を感じるとることはできなかったんじゃないかな。兄は兄で、どっちかっていうと部屋に引きこもっちゃうタイプの人だったんで、母が変化しているとか気づいていなかったかもしれません。
ダルさんが最も敏感に察していたんですね。お母様の様子を見ていて、どう感じていましたか?
ダ:部活から家に帰ったら1日のことを全部話しちゃうような母親っ子だったから、どう思ったかっていうと、そっけなく感じ始めたりとか、いつものように喋りかけてもだんだんレスポンスがなくなってくるなとか、「話しかけないで」感を出してくるなっていうのはあったかな。
どこのご家庭も何かしら持っていたりすると思うのですが、ダルさん自身は育ちの中で「なんでこんな家なんだろう」など、悩んだりされたのでしょうか。
ダ:ありましたよ。僕、高校2年生の11月に母親が失踪していなくなっているんですよ。で、いなくなった後に家の中をあさると、がっつりカードの明細書とかが出てきて、初めて借金があることを知りました。
今まですごい母親っ子だったけど、母親がいなくなったことによってすごく孤独感も強くなったし、家に帰ってから閉じこもるようになったし。そのタイミングでは夫婦であった父親のことを恨むというか、嫌ってましたね。
なぜ嫌だなと思ったんですか?
ダ:母親がいたときには、明らかに変化している母親にもしかしたら父は気づいていたのかもしれないのに、そのフォローをしなかったところと、いなくなった後は、彼がすごくストレスが溜まっていたとかで、母親の悪口を言っていることがあったんです。
例えば「借金があるのはあいつ(母親)が、化粧品のいいやつを買っていたからだ」とか、「隠れてこそこそやっていたからだ」とか、本当かはわからないようなことを言っていて。そのせいで妹は母親のことを悪いって思っちゃうんじゃないかって、嫌悪感じゃないですけど、そういう感情を抱いてました。
高2のときにお母様がいなくなって、孤独感が強くなったとさっき言われましたが、そのことは学校生活や家族以外の場面でどのように影響したのでしょうか。
ダ:いなくなった直後は、学校へ行くとみんな楽しそうにしているけれども、自分は母親がいなくなった直後だし、結構メンタルやられている状態だから、人が笑っていることとか、楽しいことに対して、すごく怒りを覚えていました。それはすごい短期間でしたけどね。
あと、(友達との会話で)家族の話って絶対出てくるじゃないですか。極力避けていましたね。たとえば「夏休みどこいった?」とかだけでも、それはちょっと…。
弁当とかの昼食も、父が仕事でいないときは僕がほとんど作るようにもなりました。
父の事業が高1のときに潰れたんですよ。そこから工場勤務になって、夜勤だとか日勤だとかを繰り返していました。父が夜勤の日は、僕に弁当を作ってくれる人がいない。他の人たちは家族が弁当を作ってくれるのに、それを自分でやらなきゃいけないのは、みじめっていうわけじゃないですけど…。その頃から、家族について劣等感の塊でした。
周りの人の家族と比べてしまったり?
ダ:すごい比べていましたね。それこそ、兄妹の話をするのも好きじゃなかったんで。
妹さんのことを話せる友達はいましたか?
ダ:いましたけど、そんなに妹について自分から詳細に話すってことはなくて、兄妹構成と、妹が障害を持っているんだよねーくらいは話していましたね。
自分以外に、自分のことをわかってくれる人はいましたか?
ダ:このインタビューみたいに的確に話したことはなくて。ずっと一緒にご飯食べている友達はいましたけど、本格的に話すようになったのは大学卒業してからです。
大学を卒業して、ご家族のことを周りに言えるようになったのはどうしてですか?
ダ:最初にちょろっと言ってみようと思ったのは、キッズドアのボランティアの活動の場面です。自己紹介でグループになっているときに、自分の過去について話している人がいて、自分もつられて話した、みたいな感じですね。
でもそれで自分が変わったとかじゃなく、周りが話していたから話したみたいなところはありました。
そのときは、どんな風に話したのですか?
ダ:「母がいなくて~」だとか「借金を抱えて~」だとか「大学へ進学するのも苦労しました」みたいなことを、さらーっと話したくらいですかね。
そこにいる小学校の女の子や男の子には母親しかいなかったり、ボランティアの中にも自分と近い経験をしている人とかって結構多かったんです。だからそういう、近しい経験をしている人がいるっていうのと、自己紹介で話している人がいたっていうので、つられて話したっていう感じですね。
ボランティアという1つの共通軸を通して、複雑な境遇を持っている人がなんとなくそこに集っていたということですね。ふと話したというのは、本当は自分の家族のことを話したいっていう欲求がずっとあったのか、それともたまたまそういった話になったのでしょうか。
ダ:たまたまですね。
「わかってほしい」とかはあまりなくて「こんなもんかな、この人たちとの付き合いは」という感じでしょうか。
ダ:そんな感じですね。だいぶ冷めていましたよ。基本的にひとりで行動していましたし。
ともすると、本格的にがっつりご自身の事情をお話し始めたのは、ゆきさんが最初ということでしょうか。ゆきさんにお話したときのことを教えていただけますか?
ダ:カナエールの打ち上げが初対面だったんですが、最初は「この人は一体誰なんだろう」っていうのから始まって。
ゆ:私とも初対面だし、他のメンバーとも初対面だから、まずは私と仲良くなったほうがいいだろうと思って、最初に私から自分の話を言ったのかな?
ダ:そうかもしれない。ゆきさんもいろいろ抱えているんで。
ゆ:私はもともと虐待にあっていて、施設みたいなところにいたんだよねっていうところから、それで進学を目指す似た境遇の子どもたちを支援したくてカナエールのボランティアを始めた、とサクッと説明した気がします。
私は、母子家庭で育ったんです。母、妹、私なんですけど。母は3回結婚をして、内縁の夫とかもいたりしました。
虐待の経験っていうのは、どういうものだったのでしょうか。
ゆ:おかしいなって思い始めたのは、保育園の年長とか小学校低学年くらい。しつけにしては暴力がすぎるなって。ひっぱたかれるのは日常茶飯事でしたし、食べるのが遅いとか、字が下手っていうのだけで、叩かれたりしていたので、おかしいなって思ってました。
虐待とかっていうのとは違うかもしれないけど、一度も外で遊んだことがなかったんですよ。家庭訪問のときしか友達と遊ぶことができなかった。軟禁状態でした。学校に行く以外は外へ出られなかったんです。唯一、学校へ行っている時間が私の自由な時間でした。逆に夏休みは学校へ行けないので、苦痛だったんです。
その状況はいつまで続いたのでしょうか。
ゆ:家を出たのは19になりたてなので、19歳までですね。
妹さんも同じ状況だったのですか?
ゆ:妹に対しても全く無かったわけじゃないんですけど、妹はやんちゃだったんで、しつけと虐待が混ざる感じで、圧倒的に私の方が多かったですね。
入られた施設というのは?
ゆ:実際は自立援助ホームで、まだ自立援助ホームっていう仕組みができはじめたばかりで全然定着していなくて、説明するのがめんどくさかったので、だいたいは施設と言っています。
19歳のときに、そこに入られたんですか?
ゆ:その前にシェルターに入っていますね。
シェルターに入ったきっかけを教えていただけますか?
ゆ:私が高校へ進学したタイミングで、一緒に住んでいた内縁の夫が母親による家庭内暴力で蒸発してしまいました。内縁の夫へ暴力を振るっていた頃から、母親はネットゲーム廃人になっていて働いていなかったので、内縁の夫が蒸発した後に生活保護を受けたんです。
そのときにお世話になった市議会議員さんがいて、その議員さんが、うちがおかしいってことにすぐに気づいてくれて、家を出るまでの間、定期的に相談に乗ってくれていたんです。いよいよ限界だってときに、あるシェルターを見つけてくれて、そこだったら子ども担当の弁護士が代理人になって付くからって話しを繋げてくれて、シェルターに入りました。
話を少し戻しますが、暴力は体が大きくなっても続いたのですか?
ゆ:お腹を思い切り殴られてもう声が出ないとか、首を締められたりとか、包丁を持って追っかけ回されたりとか、湯船に顔を沈められて気絶直前になったりとか、タバコの火を押しつけられるなどもありました。
それは学校が拠り所になりますよね。
ゆ:ただ、友達がいなかったわけじゃないんですけど、母親から帰ってきなさいと言われて放課後に遊べないので、あまり自分から仲良くなろうとはしなかったです。「なんで遊べないの?」ってなっちゃうから。
アルバイトはされていたのでしょうか。
ゆ:高校を中退させられてからは、バイトをしていました。じゃないと生活できない状態だったんで。バイトに行くのも送り迎え付きなので、バイトへ行くときとスーパーへの買い出し以外は、外出したことがありませんでした。
高校を中退させられてしまったのですね。
ゆ:そうですね。母親の3回目の結婚のときに引っ越さなくてはならなくて、学区外だったので、編入させてくれるっていう約束でその再婚を認めたのに、結局中退させられて、その後も編入させてくれませんでした。
再婚相手には、私と妹よりも年上の連れ子がいたんですけど、再婚後その家族と暮らしていても、母親は一切家事をせずゲームばかりやっていて、私が6〜7人分の家事をやるのと、学校へ行ける子たちの弁当を作らされる日々が続いていたんです。
悔しいし、屈辱的だし。その間も母親が隠れて暴力を振るっていたんですよ、私の部屋で。
他の家族は気づいていたのでしょうか。
ゆ:絶対気づいていました。
だけど、それはないことのようにされていたんですね。
ゆ:はい。内縁の夫が蒸発した後の、生活保護を受ける暮らしが市に監視されるみたいだと感じて、母親は嫌がっていました。その生活から脱出するために出会い系で出会った人と母親が再婚したタイミングで、高校を辞めさせられました。その後に私は大検を取ったんですが、私が18歳、妹が16歳になったときに、もう男もいらなくなっちゃったらしく、娘に働かせれば自分が働かなくてもいいとも考えたようで、1年半で母が離婚しました。
出会い系を利用して再婚したのは、経済的に夫がいないと困るという要素も大きかったということですね。私の知人の中には、そういう環境に育った人で非行化しちゃった女の子がいるのですが、ゆきさんはそんな状況下でも大検を取ったりされていて、その強さみたいなのは何が理由なのでしょうか。
ゆ:大検を受けたのは、高校中退させられたっていうので相当落ち込んで「人生終わった」ぐらいに思ったんですよ。あまりの落ち込みっぷりを見た母親が「大検っていうのがあるらしいよ」って言ってくれて、そこからTSUTAYAで大検の参考書を買ってもらって、受けて、合格したっていう感じです。
絶望はしていなかったということなんですね。
ゆ:すごい落ち込んだときは、私が自殺して死ぬか、親を殺すかの二択だなと思ったことがあったんですね。でも「どっちも負けだ」って思ったんです。
今の環境に押しつぶされて自殺するのも負けだし、結局幸せな人生を送ることができないまま人生を閉じるのも負けだし、親を殺しても牢屋に入れらて自分らしい生き方ができない。
途方に暮れることはあっても、いつか絶対、この生活から逃げ出してやるっていう気持ちがありました。でも「今じゃない」って、15歳、16歳、17歳とずっと思って、18歳ぐらいになれば一応家を出て、匿ってくれるところが無かったとしても、何とか食いしのげるくらいは働けるんじゃないかっていうので、出るとしたら18~20歳までの間じゃないと、助けを求めても助けてもらえないし、ひとりで生きていくにも金銭的に生活していくことができないって思っていました。
いや、すごく強いですね。「働けるまで待つ」っていう。
ゆ:私の中で施設という選択肢がなかったんです。なぜかというと、小さい頃からずっと親に虐待されながら「施設入れるぞ」って脅迫されていたので。私にとっては、施設=牢屋みたいな、少年院のような印象で育て上げられたので、私の逃げ場=児童養護施設とはならなかったんですよ。
自分のことを信じていたりとか、自分に対して期待している部分があるから、堪え続けられたと思うのですが、その根っこって何かわかりますか?
ゆ:そこまでへこたれなかったのは一つ理由があって、夏休みに遊ばせてもらえなかった分、夏休み期間中楽しめるように、図書館で大量の本を借りていたんですよ。その中に印象に残った本があって。『itと呼ばれた子』を読んだときに「あの本の世界が虐待で、私のこの環境は虐待には入らないんじゃないか」って思ったんです。世界にはもっと酷い思いをしたけど立ち上がっている人がいるんだっていうのを知り「私なんてまだまだだ、絶対負けない」って、そんな感じだと思います。
そもそも読もうと思わない人もいるし、読んだときに「もっと大変な人がいるんだ」と反応しない人もいるじゃないですか。そこから「自分はまだまだ…」と思えたところが、強いと感じました。
ダルさん、ゆきさんそれぞれの生い立ちについて語っていただきましたが、どのようにダルさんがゆきさんへカミングアウトをしたのか、カミングアウトをしたダルさんの大きな変化とは? おふたりのお話は、後編へと続きます。
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