「私たちは『買われた』展」に行ってきた
2016年9月18日
コラム
8月中旬、NPO法人Colabo主催の「私たちは『買われた』展」に行ってきた。
神楽坂セッションハウスの中にある小さな展示スペースは、たくさんの人でごった返していた。
会場に漂う、ピンと張り詰めた空気。
そこには、24人の少女たちのエピソードが展示されていた。
「お姉ちゃんに誘われて、JKビジネスを始めた」
「彼氏に殴られるのが怖かったから」
「友達にお金を要求されて」
そこには、少女たちの「リアル」があった。
「大人から言われて嫌だった言葉」と題された、一枚の掲示物。
「産まなきゃよかった」
「さようなら」
「泣くな」
「殺すぞ」
「黙れ」
腹の底に重石が沈んでいくような気分になった。
少女たちを守るべき立場にある大人は
展示されたエピソードを読み終えた私は、複雑な感情でぐるぐるになった。
いろいろな感情が湧き起こる中で、最も強く抱いたのは、「悔しさ」だった。
少女たちのエピソードには、少女たちが勇気をもって発信したメッセージを、本来少女たちを守るべき立場にある大人が、軽視し、無視するシーンが散見された。また、児童福祉施設職員による暴力行為、児童養護施設職員、教師、警察官らによる性犯罪も告白されていた。
なぜ、少女たちの声は、軽視され、無視されたのか。
なぜ、少女たちを守るべき立場にある大人が、加害者になるのか。
この二つの点について、考えてみたい。
軽視・無視される子どもの訴え
虐待や、生活上の困難は、見えにくい。
大人も子どもも、こうした事実を隠したがるからだ。
大人が、虐待や適切な養育環境を提供していないことを隠したがるのは当然のことだが、被害を受けている子どもが隠したがるのは何故だろうか。
ママの再婚相手の男は、毎日のように私に暴力を振るう。
そのことを学校の先生に相談したら、学校からママに連絡が行った。
ママから再婚相手の男に伝わり、「誰のおかげで学校に通えていると思っているんだ」と言って、再婚相手の男からの暴力が酷くなった。
私が我慢すればよかったんだ。
(ある児童養護施設出身者の経験から)
状況を改善するためには、第三者に状況を知ってもらうことが大切だ。
だが、第三者に状況を伝えることは、リスクを伴う。
安全が守られない可能性があれば、自身が置かれている状況を、第三者に伝えることを躊躇してしまうだろう。
子どもにとって、状況を変えるための一歩を踏み出すことは、とても勇気のいることだ。
自分が置かれている窮状について、勇気を持って訴えた彼ら・彼女らの言葉を、守るべき立場にある大人はどう受け止めているか。
教育や福祉の現場で働いていると、子どもの状況や訴えが軽く扱われたり、無視されたりしている場面に遭遇することがある。
問題が存在していることを認めてしまったら、対応する責任が生まれる。
でも、じっくり対応するだけの余裕がない。
だから、問題を積極的に認知しようというはたらきは失われる。
結果、子どもの訴えに対して鈍感になってしまう。
「大したことじゃない」「本人の責任だ」と処理をしてしまえば、負担が増えなくて済むからだ。
本来、子どもを守るべき立場にある大人は、子どもの様子を注意深く見守り、普段と様子が違えば、「何か問題はないか」と感度を上げなければならない。だが、余裕がない現場では、本来あるべき姿勢から遠のいてしまうことも少なくない。
守るべき立場の大人による加害
なぜ、少女たちを守るべき立場の大人は、加害者になったのだろうか。
私は、二つの理由があるのではないかと考えている。
一つ目は、ストレス・疲労の蓄積による脳機能の低下である。
教育や福祉の仕事は、感情労働の割合が高く、ストレスが溜まりやすい。
また、長時間労働や不規則な労働によって、生活リズムも乱れがちである。
ストレスや不規則な生活リズムは、脳機能を低下させる。
脳は、「生きるための脳(欲求)」、「感情を司る脳」「思考・判断を司る脳」の三層に分かれている。
ストレスや不規則な生活リズムによって、「思考・判断を司る脳」の機能が落ちると、欲求や感情をコントロールできなくなってしまう。
ストレス・疲労が過度に蓄積されれば、理性的な脳は損なわれる。自身をコントロールできなくなれば、誰だった過ちを犯す可能性がある。
二つ目に、社会的に正しく振る舞うことが求められる職業人は、反動が生じやすいことが考えられる。
行動心理学に、「モラルライセンシング」という考え方がある。
一言でいうと、「何かよいことをしたあとは、自分に対して甘くなる」ということである。
本来、子どもを守るべき立場にある大人による加害行為も、この考え方で説明することができる。
「正しくあるべし」と、社会から強くプレッシャーを受ける立場にいる人たちは、公的な領域から外れて私的な領域(自分のコントロールが及ぶ範囲)では、自制心を失いやすい。「普段正しく振る舞っているのだから、ちょっとくらいいいだろう」という心理がはたらくのだ。
脳機能の低下×モラルライセンシング=守るべき立場にある大人による加害
こんな構図が見えてきた。
寛容の博物館が教えてくれること
アメリカ・カルフォニア州のロサンゼルスに、サイモン・ウィーゼンタール・センターというNGOがある。
この組織は、ホロコーストの記録・保存を行っていて、アメリカの人種差別の歴史やホロコーストに関する資料を展示している、「寛容の博物館」を運営している。
「寛容の博物館」には、「Unprejudiced(差別をしない人) 」と書かれた扉と、「Prejudiced(差別をする人)」と書かれた扉がある。
先に進むためには、どちらかの扉を選ばなければいけない。
人種差別の歴史やホロコーストについて学ぼうとしている来館者は当然、「Unprejudiced」を選ぶだろう。
ところが、その扉は鍵がかかっていて開けることができない。誰もがみな、「Prejudiced」の扉を選ぶことになるのだ。
この扉は、来館者に何を訴えているだろうか。
私たちは、誰もがみな差別的に振る舞う危険性をもっている。
「私は絶対に差別をしない」と表明するよりも、「私も、何かをきっかけに差別的な振る舞いをするかもしれない」と自分を戒めることのほうが、賢明であるということだ。
「寛容の博物館」は、差別や偏見を対象に扱ってきたが、二つの扉が示す教訓は、人との関わりに際して生じるあらゆる振る舞いに援用することができる。
悪い条件が重なれば、私だって、他者の訴えを軽視・無視するかもしれない。
酷い状況に置かれれば、私だって、他者に何らかの害を加えるかもしれない。
誰だって、そのつもりがなくたって、(あるいは、ないからこそ)過ちを犯す可能性はあるのだ。
「一人ひとりの声に真摯に向き合おう」「不祥事を根絶しよう」―スローガンを掲げるのは実に簡単だ。
でも、それは、状況を改善するためにはあまり役に立たないだろう。
私たちは、どのような環境に置かれると、子どもたちの勇気ある訴えを無視・軽視してしまうのか。
私たちは、どのような状態になると、彼ら・彼女らに危害を加えてしまうリスクが高まるのか。
こうした問いを大切に、自分や目の前の子どもたちと、丁寧に向き合いたい。
「私たちは「買われた」展」に参加して、改めてそう思った。
川瀬 信一(かわせ しんいち)
中学・高校時代、里親、児童自立支援施設、児童養護施設で過ごす。
大学・大学院修了後、中学校教員。
2015年より、自身が育った自立支援施設に教員として勤務している。
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